こんにちは、ダンナです。
本記事は劇団四季「ノートルダムの鐘」の感想と考察について書いた記事の後編です。もしお時間があるようであれば前編を一読いただき、再度後編へお越しください。また、ノートルダムの鐘についてまだ何も知らないよ!という方は観劇前に書いたメモを一読いただければ幸いです。
【前編】
【メモ】
それでは、感想と考察の後編を始めたいと思います。
後編は以下の内容を話していきたいと思います。
・他の作品との相違点について整理
・あなたは怪物か、それとも人か。
あくまでも素人考えです。解釈違い等があればご指摘頂ければと思います。
また、ネタバレを多分に含みますので注意をお願いします。
劇団四季と他作品の相違点を整理
まず、劇団四季「ノートルダムの鐘」と原作やディズニー映画との相違点について整理していこうと思います。
カジモドの生い立ち
相違点を比較するとき、カジモドの生い立ちから話すべきでしょう。
物語の根幹でありながら、原作と映画、演劇とどれも生い立ちが異なります。
原作では、ノートルダム大聖堂に捨てられた醜い子でした。フロローとの血縁関係はなく、性格もどちらかというとあまり好い印象がありません。
ディズニー映画では、心優しい青年が描かれています。しかし、フロローとの血縁関係がないだけではなく、フロローは母親を殺した張本人なのです。カジモドを育てる理由は保身。神への言い訳なのです。
劇団四季では、フロロー弟の子として登場します。つまりは甥っ子、カジモドからしたら伯父さんとして血縁関係があります。
この生い立ちは物語の結末において非常に重要な要素であります。
フロローの職業と職位
フロローの職業と職位は作品ごとに異なります。
映画は裁判官として登場し、職位は最高裁判事として秩序を守ります。
どの作品でも偉い人。エリートであります。大助祭…というのが分からなかったのですが、助祭長と同義で良いのでしょうか?
フロロー弟の存在
フロロー弟は映画では登場しません。
原作ではフロロー兄は弟に甘々で、最後はカジモドに殺されます。
劇団四季では甘々とは言えませんが大切にされており、カジモドの父親として登場します。死因は流行病でしたね。
フィーバスの属性
フィーバスがエスメラルダやカジモドに対する態度が変わる重要な要素です。
原作ではフィーバスには婚約者がおり、エスメラルダは遊び相手程度でした。
映画と劇団四季には婚約者は居ません。どちらかというと映画版の方がカジモドに対して友好的であったと思います。
また、フィーバスは原作では殺されます。犯人はフロロー。エスメラルダとヨイコトをするであろうベッドの下で待ち伏せをしているフロローに殺されちゃいます。というのは作品途中までの話で、実は最後に婚約者の下へ帰ります。ちゃっかりしてる。
物語の結末
物語の結末が作品の印象を大きく変えることは、言を俟たない。
しかし、原作と映画、劇団四季では結末が大きく変わります。
最も顕著なのは映画版です。
フロローの死因は転落死です。他殺ではなく事故死。神の怒りに触れたフロローは、塔の足場が崩れたことにより死亡します。あくまでも神の怒りなのです。
また、フロロー以外は死なず、カジモド、エスメラルダ、フィーバスは生き残り、カジモドは皆から受け入れられ、エスメラルダとフィーバスは晴れて結ばれます。
しかし、原作ではフィーバス殺害の濡れ衣を着せられたエスメラルダが処刑される様子を、フロローとともに塔の上から眺めていたカジモドにより落とされます。
原作と劇団四季は死因は同じでも、どの時点なのかが異なります。
また、エスメラルダとカジモドの最後について、映画では友人のまま終わります。ある意味バッドエンド。しかし、原作ではエスメラルダの墓にカジモドも入っている様子が見つかります。劇団四季と似ている結末ですね。
私個人の感想ですが、映画では結局恋は実らずバッドエンドですが、原作と劇団四季ではエスメラルダは死んでしまいますが、カジモドにとってはハッピーエンドなのではないでしょうか。民衆から認められず、恋も実らない。ならば、死後に寄り添えるというのが最も残酷で現実的な幸せだと思います。エスメラルダの意思はここにはありませんけどね…。
と…まあ、目立つところはこんな感じかな…。
劇団四季「ノートルダムの考察」の考察
これらを踏まえ、今回は劇団四季「ノートルダムの鐘」として考察していきます。
命題である「怪物」の正体に迫りたいと思います。
怪物の正体は以下の三つであると言えます。
カジモドの見た目の醜さ
憎愛に蝕まれたフロローの醜さ
民衆の群集心理の醜さ
カジモドの見た目の醜さ
ノートルダムの鐘では度々醜さを「怪物」として表現しています。
カジモドは最後まで民衆から受け入れられることなく終わりを迎えます。それどころか、エスメラルダを助ける様子を見た民衆は一層の憎悪を覚えたことでしょう。カジモドという怪物により兵士たちは倒され、フロローは殺されます。心優しい青年である表現はありましたが、カジモドはあくまでも民衆からすれば怪物であるといえます。
憎愛に蝕まれたフロローの醜さ
つぎにフロロー。彼はエスメラルダへの愛と、それを拒絶される憎しみに身を蝕まれて、最後にはエスメラルダを殺してしまうまでに愛してしまう怪物となります。
しかし、本当に彼は怪物なのでしょうか。彼は怪物と罵りながらも甥のカジモドを育て、信念のある聖職者として出世しています。
その裏付けになるかは分かりませんが、エスメラルダのスカーフを受け取りながらも欲に抗おうと自分を戒めている演技が散見されました。
フロローが葛藤する場面で歌われた「地獄の炎」の歌詞にあるように、「彼は穢れを退けて生きてきた」「マリア様、エスメラルダを与えぬなら地獄へ落としてくれ」と、敬虔な信者であるフロローでさえも抗えぬ恋と劣情のやりどころを見失っているのです。
その結果がエスメラルダを地獄に落とす(処刑する)。これは彼にとってマリア様から許された行為に他ならないのです。
そうであるならば、フロローを一概に怪物とは断定し難いと思いました。劇場ではカジモドとの対比として描かれているようなので、一応書きましたが…。
民衆の群集心理の醜さ
最後に民衆です。これはほんの一瞬。お話の中では見過ごしてしまうほど、一部分でしかない群集心理の描写です。あらすじでも書きましたが、カジモドが「怪物の王様」として皆から持て囃されている場面から一転して、突如憎悪の対象へと変わります。
持て囃されるきっかけも誰かの一声、憎悪へと切り替わるきっかけも誰かの一声。たった一声により、人の心は今見ているものへの評価を変えています。これほど恐ろしいものはないでしょう。
誰かが言っていたから、皆がやっているから、昔からそうだと決まっていたから…このような噂と偏見が人を怪物へと豹変させます。
ノートルダムの鐘の怪物はフロローとカジモドの対比により表現されていると見かけますが、原作・映画・劇団四季のどれにおいても群衆心理の醜さについて表現しているように思います。
あなたは怪物か、それとも人か。
最後に、ここまで書き進めたうえでの感想のようなものです。
クロパンの歌う「The Bells of Notre Dame」には、以下のような歌詞があります。
「Who is the monster and who is the man?」
直訳すると「誰が怪物で、誰が人か?」
この歌を皮切りに物語が始まります。この物語自体が”怪物の正体”を観客に問いかけています。
この物語を見終えた今。
あなたがいるその舞台で、あなたは怪物ですか?それとも人ですか?
【気になったら出会って欲しい書籍たち】
(1)ノートル=ダム・ド・パリ(岩波文庫)
個人的には岩波文庫版が好きだけど読みにくいとの噂も…。
(2)ノートル=ダム・ド・パリ(角川文庫)
こちらは未読ですが、レビューでは読みやすい!とのコメントも…。
岩波文庫版はかなり重い(もっさりしている?)ため、サックリ読みたい方にはオススメかもしれません。
(3)ノートルダムの鐘(ディズニー映画)
もしディズニー映画未視聴の方はコチラを強くオススメします。
カジモドやフロロー、他の登場人物への感情が変わります。
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